10年間の軌跡 1
〇 10年間の軌跡 その一
1995年に私達家族は、名古屋から長野県に移り住みました。最初は私の連れ合いの(つまり私の妻、回りくどい言い方ですみません。)母が育った場所である長野市信更町高野のYさんのところに居候させていただいたのです。そこは長野市といっても山奥の集落で、標高も800mほどあり、11月には初雪が降るような場所でした。Yさんは生まれつき耳が悪く、そのため最初コミュニケーションをとることが非常に大変でした。Yさんはその当時72歳くらいだったと記憶していますが、私に農作業を教えるために今から考えると、驚異的な体の動かし方をしてくれました。朝6時ごろ畑に一緒に行き、8時ごろ朝飯を取るために家に戻って、すぐに畑に行って、昼頃まで農作業をし、いったん昼食をとって1時間だけ昼寝(貴重な休息の時間でした)をした後、また畑に行って、暗くなるまで農作業という毎日でした。あの年齢でよくもまあ1年間続いたものと、本当に驚くと同時に、自分に農業を継がせようと一生懸命にしてくれた好意に感謝の念でいっぱいです。いろいろな事情があり残念ながら、そこは1年間あまりで後にしなければならなかったのですが、いろいろな意味で自分にとって貴重な1年間でした。Yさんは奥さんが脳梗塞で倒れ、娘さん夫婦が引き取り、一人暮らしでした。生活は実に質素で、まきを割り、風呂を炊き、水は山の水、食べるものは自分のところで取れた米と野菜、それ以外はぜいたく品でした。たぶんかなり昔から、その家で続いていた生活がそのまま保存されているような感じでした。祖霊を敬う仏壇と、豊作を祈るための神棚が祭られ、仏壇には戦死した兄弟の戒名も祭られていました。そうした空間の中で1年間過ごした経験はまるで自分が、昭和の山間の部落での生活を追体験したような錯覚にとらわれる事があります。
私の農業の基本はそのときにYさんと一緒に体を動かした事から覚えたものです。種籾を蒔き、稲を発芽させ、ビニールで覆ったハウスの中で苗を育て、田に水を張って田植えをする。一歩一歩手順を踏んで、地道に次の作業に取り掛かる。畑の草を刈るときは、地面にはいつくばってただ黙々と草を刈り、冬に入り寒くなると、畑の白菜の寒さ対策に、新聞紙を切り取りのりで輪を作り、割り箸を白菜の周りに立てて、その新聞紙で作った風除けをかぶせる。Yさんのすべての生活は農業と一体のものでした。